眉毛がうまく描けないと、1日へこみみませんか。いつ会ってもカッコイイ女性って、こういう失敗はしないんだろうな。そんな日常生活の気分のアップダウンを繊細に、そしてオープンに書いていらっしゃる林先生のエッセイ『「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした (光文社文庫)』を読んでみました。
「たとえ明日、何も予定がなくとも、キレイでいよう。」と、モチベーションが沸き上がってくる本です。
もくじ
生命力に満ち溢れていたカラダが、思い出が詰まって重たくなっていく
先日、ドラマ『やまとなでしこ』の再放送をみながら、夫とケラケラ笑い転げていました。デジタルリマスターせねばならないほど古いのかぁ、と、ちょっと驚いてしまいましたが、今から20年前の作品なんだもんね…。
あの頃の私はまだ10代。ハイブランドの服に身を包んでキラキラ輝く笑顔をふりまいてた、松嶋菜々子さんや矢田亜希子さんに憧れました。
元の顔がぜんぜん違うので、あんな風にはなれるわけもないのに、幸せに夢を見ることができたのは、若き日のパワーが体にも心にも満ち溢れていたから。30代になった私は、もう現実をしっかり直視できるので、自分がどんなに飾り立てても桜子さんにはなれないことをよく知っています。ユニクロのTシャツで十分しあわせでいられます。
諦めたわけではなく、身の程を知ったのです。
本のなかで、林先生が「夜遊び自由な人妻セレブ」について考察している場面があるのですが、
この私など、好き放題しているようだがとんでもない。ふつうのサラリーマンのこうるさい男を亭主に持ったばかりに、そりゃ努力しています。
引用:「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした (光文社文庫)より
なんだかんだ言っても、結婚してからというもの、自由って、制限されてしまうもの。そのうえで、夫の顔色をうかがいながらたまに出かけて外の空気を吸うことで成り立つ私だけの幸福な時間もある。一方で、本当にフリーダムに遊べる奥様たちが世間に存在しているのも事実なんですよ。
パーティーの常連で、キラキラにしていて、夜光虫のように光る。でも、あの感じは、なんか苦手で。もちろん、顔面やスタイルのレベルが全然違うという根本的な理由がありつつも、うまく言語化できなかった部分を林先生が「夜遊びばかりしている女たちは、決して幸福そうに見えないのである。」と言い切っていて、あぁ、違和感はコレか!と頷いたりしました。
電話で呼び出されて、ニコニコしながらお酒を飲み、始発で帰宅してシャワーを浴びて、会社へ行くようなタフさも身軽さも、今の私にはもうありません。体が重いから。でもそれは、夫と過ごした時間とともに積み重なった思い出がギュっと詰まっているからだと感じます。
一方、パーティーにいる謎の美人な奥様たちはいつでも軽やか。どうスケジュールを管理しているのか、その調整力に驚かされることもあるくらい。だけど、いつも一人。どこかさみしそう。
「〇日、✕✕さんと、飲みに行ってきていい?」と夫の許可を得て、仕事の納期をなんとかやりくりしながら、髪を巻いて出かけていく。酔っぱらいながら終電で帰り、ギリセーフ。こんな遊び方もラクではないけれど、こうして手に入れた夜の束の間の時間こそが、主婦の私にとっての幸福なのかもしれないとふと思うのであります。
その束の間のためにネイルをしたり、美容室へ行ったり、服を買ったりするから楽しいのです。遊んでこそ、仕事が充実する。自分の生き甲斐が確立できてこその、妻という立場から光が当たるもの。
このあいだある方との対談で
「ビンボー人に美人妻なし」
と言ったら大ヒンシュクをかった。
引用:「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした (光文社文庫)
忖度なし。本音でズバズバ切っていく林先生の文章は、読む者に必ずや笑いと勇気を与えてくれるのもおすすめポイント。家に閉じこもりな主婦の人も、美容室へ行くことの大事さを痛感させられます。
仕事も、恋も、人生も。男性と同じ目線で生きていける女性
オシャレだけではありません。オペラにいったり、歌舞伎にいったり、自分で働いて稼いだお金で自由に遊ぶ林先生は、とても楽しそう。「自前で楽しんでこそ大人なり」と唱えるところにも共感しました。だって、若いうちならともかく、20代後半以降でコレやってると、かなりイタイことにも気が付ける年ごろですからね。
私だって、エライ人と一緒にご飯行ったときはゴチになることもあるけれど、二次会のケーキとか酔い覚ましのカフェとか、無理のないタイミングで「ここは出させてください」と申し出てる。だけど、そういう場面でもかたくなに「ご馳走される」という地位を守ろうとする女性って、なんか同性から見ても、付き合いにくさを感じてしまう。
男女平等からどんどん遠ざかってしまう気がしない?きっと飲み会の場だけでなく、仕事とか何気なく会話している時とかに、ふとした瞬間、その図々しい人柄って出ちゃうと思うんですよね。
「フグを一緒に食べている男女は、たいていデキている」
と書かれたことがある。私はすぐに反論の文章を書いた。
「そんなことはありません。私はいつも自分のお金、もしくはワリカンで男の人とフグを食べています。…(中略)…男の人とデキていることも少ないので、よって確率からしてデキている男の人とフグを食べることもまずありません。」
引用:「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした (光文社文庫)
この立腹のされ方は笑えますが。すごくわかる感じもしました。男性と二人で食事に行っても、デキてないし、デキてそうとも思われない。このキャラクターと人間性ってすごく大切。不倫に陥らない人には、単純に愛するパートナーがいて、幸せな家庭があって、同じようなステージの人とだけ付き合う。面倒を起こしたくないですしね。
したがって、フグだろうと焼肉だろうと寿司だろうと、この法則のなかで過ごしていれば、いつも心地よく酔えるし、ご馳走される地位を死守しようとも考えてない。逆に、この辺がゆるい人は、男女とも、どこかで人生の歯車ごとおかしくなってる。
対等でいることがすべてではないけれど、そうありたいと人間関係を考えている人は、自然とビジネスのシーンでも対等な立場を築けていけるような気がします。
私の女友だちにも、学歴とか、職業がどうとか、年収がどうとかで男を選んでいる人って少ないんですけれど、このテの場合、たいてい、本人が浮気や不倫をはじめる…。「顔で選ぶ」ことって、”悪”とされる風潮があるけれど、けっこう顔って大事だよなぁとかふと思うわけです。
なぜなら男性の浮気は、奥さんよりキレイな人とデキてるケースは少ないけれど、女性の浮気は、なぜか旦那よりイケメンな男とデキてることが多いから。
「あのさ、東大卒っていうのをタスキにかけて歩けるわけじゃないでしょ。一緒に歩いていたらただのチビじゃん。それでもいいの?」
引用:「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした (光文社文庫)
港区の夜をうろついている中途半端な女子にこの言葉を送ってあげたい。顔面のレベルって、地位や名誉と同じくらいって大事なんだよ。
この間、引退してしまった某女性タレントは、TVでもしょっちゅうお笑い芸人の旦那さんを「ブス」呼ばわりしてて、ネタなのかと思いきや、本人はイケメンたちと不倫しており、なんか、「あ、マジで言っていたんだな。」とその素直さに妙に納得させられたりもしました。イケメンが好きなら、はじめからイケメンと結婚すれば、きっと彼女は幸せだったんじゃないのかな。
失敗は、若いうちにたくさんしておこう
何も、すぐに完璧な大人になる必要はないんだなと安心感を与えてくれるのも林先生の優しいところ。着物にしても、仕事にしても、歳を追うごとに、だんだん失敗が許されなくなってきます。だから若いうちに、いろんな場面を踏んでおかないとならないのだとも感じるのです。
思い立って京都へ行ったり、ボキャブラリーを増やしたり、お節介をしたり…。いろんな場面で人とのつながりを大切にしていると、ときどき、映画やドラマみたいなシーンに出会える。いいことも、わるいことも。それが人生の豊かさに繋がるし、逆に、経験値が少ないまま中年を迎える悲惨さも、安易に想像できてしまう…。
「人間勉強していい学校に入るだけが人生ではない。自分の好きな生き方をするのが大切だ」
というアレは、多くのフリーターやニートを生み出した。
引用:「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした (光文社文庫)
そう。男性の依存するのではなく、自分の力で生きなくっちゃ。日本の女性は子育てや介護など、いろんな場面で自己犠牲を払うことが称賛されたり、共依存に陥った状態を美徳とされがちだけど、そんな恐ろしい呪いから解放してくれるパワーを与えてくれるのです。
自分の人生なんだから、自分のために生きればいい
数日前には「生きるために、化粧をする」という、なんだか押しつけがましい某化粧品メーカーのコピーがしょぼい煙をあげていましたが、生きるために化粧なんか必要あるわけなかろう。どうして女性が化粧をするのか?単純に、自分の気分をあげたいから。それだけではダメなのかね。
今日も、明日も、あさっても、自分ファーストで生きればいい。
わくわくしたいから、外にでかける。気分よく遊ぶために、化粧をする。たったそれだけのシンプルなことですら、難しさを感じる世の中だから、多くの女性に林先生のざっくばらんな生き方を知ってほしいな。肩の力を抜いてちょっとトゲのある毒をはいて、スッキリするヒントがギュっと詰まっています。
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